鈴木理実子さん

 

鈴木理実子さん

 

毎月石巻市に出向き、

 

歌声喫茶で被災者を支援

 

ちっぽけだけど神様に用いられた喜びをいただいて

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鈴木理実子さん。おゆみ野教会の前で

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★石巻市内にはまだ手づかずの被災地も残る。20125

 

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理実子さんが通う歌声喫茶。お汁粉を食べながら、歌ってはおしゃべりして楽しむ。20122https://picasaweb.google.com/meikotanabe2010/20120715#5765179232169363426

 

 鈴木理実子さんは52歳。末のお子さんが高校生とはいえ3人の子持ちである。その彼女が、東日本大震災で被災した宮城県石巻市に今も毎月1回通い、支援活動を続けているという話を知り、どうしても会いたくなった。

 

 昨年の3.11の地震から、約1年3カ月。あの圧倒的な津波の映像を見た直後は、募金活動にも協力していたが、熱しやすく冷めやすい気質のせいか、気になりながらも日々の生活に追われてきた。それなのに同世代の主婦で、仕事も家事もしながらどうしてそんなことができるのだろうというのが素朴な疑問だった。

 

 

 7割の児童が犠牲となった石巻市大川小学校。今年5月、鈴木さんの娘さんが撮影。「人気が無いところに、こいのぼりがそよいでいるのが、とてももの悲しかった」という。石巻市の中にも、罹災しなかったところもあれば、復興が進んでいるところ、手つかずのところがあり、住民の方々の心中は、複雑のようだ。

 

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 震災翌日に被災地に向け出発

 

理実子さんが通うのは、宮城県石巻市渡波(わたのは)黄金浜(こがねはま)地区である。名前からして神々しいが、支援母体はおゆみ野キリスト教会である。理実子さんはその教会員だ。

 

同教会では震災の起きた翌日に、予定されていたコンサートを急きょチャリティコンサートとし、募金を集め、支援物資をかき集め、その晩10時に集合、11時には借りたトラックで被災地に向け出発したという。この初動の早さは、阪神淡路大震災を経験した同教会のアイバーソン牧師の判断による。その後、水やおにぎり、ガソリン、灯油、生活物資を、教会員やその家族、近隣の協力を得て、毎日調達してはピストン輸送した。それが5月連休くらいまで続いた。理実子さんは、支援物資の調達係としても活動してきた。

 

★震災直後から5月連休まで毎日、食材や燃料、生活用品の買い出し、おにぎり作りが行われ、夜8時に積荷、10時に出発という作業が続いた。アメリカ全土の長老教会から支援金やライフパックという生活必需品も寄せられた。

 

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 ★震災1週間後。教会の近隣の方々の協力でおにぎりやおかずをつくって運んだ。灯油・ガソリン・水、生活物資をトラックに積める。中でもガソリンが一番助かったという。

 

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現在は、教会員だけでなく、その家族あるいは志のある地域のボランティアや知り合いの人たちが月に一度、炊き出しと泥だしのために現地に向かう。コーヒー屋さんがポットとコーヒー粉を持って、ラーメン屋さんが麺と汁を用意して、鍼灸師の方がポータブルベッドをもって出かけている。自転車のパンク直しも重宝された。

 

炊き出しで物資が多い時には車45台で出かける。歌声喫茶のような少人数で当日中に帰りたいボランティアは、電車を利用することもある。旅費にして1万5000円くらいだが基本は自腹である。

 

車は土曜の朝7時、8時に現地に到着し、11時からは炊き出し準備に入る。震災直後は400人集まったが、今は100人くらいである。被災者たちは仲間に会いたくてやってくる。

 

 

 

★炊き出しのようす。現在は現地にスタッフもいて、おゆみ野からは月に1度出かける。

 

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当初は、教会のネットワークを通じて、いわき、塩釜、石巻、南三陸、気仙沼、日立などの準避難所、配給所となっていた教会に物資を運んだ。現在は、教会のなかった黄金浜地区の元肉屋さんの家を修復して、「黄金浜ハウス」と名付け、拠点としている。ここでは、毎週水曜日の午後1時からカフェを開いている。このカフェを主宰するのは、アメリカからやってきた20代後半のボランティア宣教師バージニアさんである。高校の時、おゆみ野キリスト教会員の家にホームステイした縁で来日、今は石巻に常駐し、活動している。

 

 

 

★黄金浜ハウスでの子ども会。週末金曜日に東京・千葉の若者が1台のバンに乗って出かけ、次の日の昼、石巻の子供らと一緒に遊んで過ごす。震災当初、外に出て遊ばせるのが怖かったというお母さんが、ここなら安心して遊ばせられると親子連れでやってくる。

 

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五感で感じる被災の現状

 

炊き出しの場所は、当初、車が何台も流されてきていた。「一体、この車に乗っていた人たちはどうなったのだろう?」と理実子さんは思ったという。1つのおにぎりを5人で食べたという話。臨月の若い女性を車の荷台に乗せて千葉に連れて帰る時に、何日もお風呂に入れず、髪の毛もカピカピになったその女性の臭いがきつかったという話。津波にのみこまれて、最後の最後に一緒に手をつないだ子供の手を離してしまったお母さんがそれをどれほど悔いているかをようやく話せるようになった話。瓦礫が撤去された殺風景な街で夜になるとどんなにか寂しいだろうという話など、理実子さんの口からこぼれでる話は、現地に行った者にしかわからない五感で感じる現実であり、時間をかけて築いた信頼関係の中でようやく話されたものだ。

 

★殺風景になった元の住宅街を歩く、老夫婦。自宅は高台にあったために流されずに済んだものの、近くの病院や商店が消え去り、毎日遠い道のりを歩いて生活を続けている。

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いつだったか、テレビで被災者に「支援する我々に何をしてほしいか?」という質問を受けて、被災者の若い女性が「私たちのことを忘れないでほしい」と答えていた。継続すること。見守りつづけること。同教会の黄金浜の活動はまさにそれに応えていると思う。しかし、その活動を支えているのは、個人である。私たちと同じ、主婦であり、仕事人であり、学生なのである。やればできるのである。

 

私だからできることを見つけられた

 

理実子さんは、今年に入って黄金浜ハウスで「歌声喫茶」を提案した。被災してから時間を経たことで、ようやく被災者の人たちが感情を言葉にして表現できるようになってきたと感じたからだ。震災直後は、顔が引きつっている感じで「助けてほしいけど踏み込まれたくない」というオーラを感じたという。

 

この歌声喫茶で最近、「翼を下さい」をリクエストされた。理由は「中学の時、この歌のアルトを歌い、賞をもらったからだ」という。理実子さんは「歌は、昔の幸せな時にワープできる力をもっている。この人は、ちょっと前までいっぱいいっぱいだったけど、やっと、楽しかった頃を思い出せるようになったと感じた」。

 

 歌声喫茶は理実子さん自身にとっても大きな意味をもった。「ありがとう。また来てください」「今度いつ来てくれる?」という被災者の声を聞いて、「私にとっても幸いだった。私、神さまに導かれているのかなと思った」。「お茶を入れて下さる方、被災した子供と遊ぶ若い大学生、それぞれに支援の役割はあるけど、私はピアノが弾けるし、みなさんからお話を引き出す能力がある。ほかのことは私じゃなくてもできるけれど、歌声喫茶は私だからできるのではないか。私一人はちっぽけな存在だけど、それなりの価値を神様から与えられているのではないか。そうであるなら、喜んで自分を捧げようと思った」。

 

 理実子さんはクリスチャンだ。理実子さんと同じように神の概念を受け入れられる人ばかりではないだろう。理実子さんが家族と関係なく自らクリスチャンになったのは、高校生の時だという。受験競争や成果主義に疲れた時、聖書に出会い、「こんなにも愛されていると気付いた」と話す。

 

 理実子さんの話を聞いていて思い出したことがある。あれは40代のころだった。妻でもなく、母でもなく、一人の人間として私にしかできないことをやらねばと焦っていた。いわゆる「自分探し」である。いろいろやってみたがうまくいかなかった。家族が協力してくれないから、仕事の相手先がヘンなやつだからと言い訳はいくつもあった。結局のところ、「自分探し」などといっているうちは、見つからなかった。自分の使命というものがもしあるとしたら、それは、「与えられるもの」「導かれるもの」ではないか。理実子さんの話を聞いてそう思った。

 

 おゆみ野教会による石巻の震災復興支援は、今後は地域の起業も視野に入れて展開する予定だ。脱サラして、支援活動に専念する教会員や、傷ついた子供たちに寄り添うことをライフワークにしたいという大学生など、いろんな人たちが教会の活動に参加している。6月末には20名のアメリカ人高校生が来て、千葉に2泊して石巻に向かい、2週間、泥出し作業をした。ボランティアに参加されたい方、寄付をされたい方はおゆみ野教会(電話:043-292-0015)までぜひご連絡ください。                                20127月 MT

 

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M.Kさん

こんなおばあちゃんになれたら・・・                            

 子どもがどんな大人になりたいかと考えるのと同じように、40代、50代になるとどんな老人になりたいかを考えることがある。Kさんは「おゆみ野ウォーカーズ」のメンバーだが、私たちにとって「こんなおばちゃんになりたい」と思う一人だと思う。

  いつもかくしゃくとしてリュックサックを背負って、30代、40代の私たちと一緒に遊歩道を歩いてくれる。かつて彼女が介護度4で、3年間も車椅子生活を続けていたとは信じられないほどだ。

 彼女はまた料理がとてもうまい。先日は彼女を講師にして「残り物でつくるお弁当・夕飯の一品」という料理教室を開いたら大好評だった。彼女の料理は、肩のこらない自然体の料理だが、そこには目に見えない知恵が盛り込まれている。例えば、ひじきの煮物を作る時、油揚げと千切りにした人参をザルに入れ、熱湯をかける。これは油揚げの油を抜きつつ、その油を人参に移すためである。こうすれば、その両方を炒める時油が不要になるのである。また「沢庵の白和え」では、市販の沢庵に砂糖が含まれているので、あえ衣の豆腐には砂糖を入れず塩のみを混ぜている。これを沢庵とあえるのだが、沢庵のぱりぱり感と豆腐のもっちり感が組み合わさって新鮮な食感だった。料理以外でも、壊れたこうもり傘の布を使ってアームカバーを作ってくれたこともある。

 Kさんの魅力は人に与えても尽きることのない豊かさであり、見返りを求めないさわやかさにあるのではないかと思う。どうしたらKさんのようになれるのか、話を聞いてみた。

 Kさんは昭和12年生まれの71歳。内房線沿線で生まれ、10人兄弟の6番目だった。小学校の時戦争があったが、幸い農家だったので食べるものには困らなかったという。

 Kさんは料理が好きだったので子どもが大きくなると、ご主人の経営するレストランで働くようになった。そのうち、成人した娘さんと一緒に喫茶店を開き、娘さんが嫁いだ後は焼き鳥屋に転向した。「1日100本の鶏を串にさすので、指が曲がってしまったよ」と笑いながら人指し指を見せる彼女は苦労を苦労と思わない強さを感じさせる。当時店にきていた若者たちから「かあちゃん」と慕われ、今でも交流を続ける。

 焼き鳥屋は24年間続け、平成10年に店を閉じた。「さあこれから遊ぼう!」と思った矢先、Kさんはくも膜下出血で倒れてしまう。幸いすぐに入院。頭にたまる水を腸に流す管を通す手術に成功し、1ヶ月くらいで退院する。「やった人じゃないとわからないけど、頭に水がたまるとものすごく痛いんだよ」とKさんは打ち明ける。

 その後、今度は足が痛み出し、ヘルニアと診断され痛み止めの注射を打っていたが、ついに歩けなくなってしまった。別な病院で診察を受けたら骨粗しょう症とわかり、それから3年間、車椅子生活を送った。投薬によって痛みがとれた後はリハビリを始めたが、それでも2mも歩けなかった。

 ところが、平成17年に友人の夫が亡くなり、どうしてもお線香を上げたいと思ったのがきっかけで、Kさんは歩けるようになった。これにはデイセンターの人たちも驚いたという。平成18年の3月には息子さんと同居するためおゆみ野に引っ越してきた。

 平成18年6月にアサパルというミニコミ誌で私たちのメンバー募集を見て自分から参加してくれた。Kさんとの付き合いはそれからだ。「兄が漬けた漬物だけど」と言って差し入れしてくれたり、料理教室には「妹のところでもらったせりだけど」と持ってきてくれたり、兄弟の仲がとてもいい。

 Kさんの豊かさを生んでいるのはこうした兄弟の仲の良さであり、土や自然に根ざした感性であり、何よりたんたんと与えられた仕事をこなす粘り強さではないかと思うのである。老後の人生の充実感が、学校教育から得たものよりもむしろ育った環境にあるという事実が、今の私たちの子育てを見直すきっかけになるといいなと思う。

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花牟礼祐一さん

2022_021_2 花牟礼(はなむれ)祐一さん

ゴーギャンを心の友として水彩画を描き続ける花牟礼さん

「パレットを汚さない人間」を目指して

* ゴーギャンのひそみにならって
 鎌取駅を挟んで、おゆみ野の街並みの反対側を辺田(へた)町という。おゆみ野がURによって開発された近代的な街並みとすると、辺田町は昔ながらの田園風景を残した農村地帯だ。

 ここにゴーギャンを心の友とし、その高みを目指している水彩画家がいる。
花牟礼祐一さんといい、今年44歳のサラリーマンでグラフィックデザイナーが本業だ。
花牟礼さんゴーギャンと同じように中年と言われる年になってから、「絵を描がくのだ」という強い衝動に襲われた。

 きっかけは俳優の榎木孝明さんの水彩画の展示会を奥さんと見に行ったことから始まる。榎木さんの風景スケッチは「描きたいものを、自分のペースで力まず描いており、それゆえ多くの人を感動させるもの」だったそうだ。

そうか、今までの自分は他人の目線ばかり気にしすぎていたから何も出来なかったのだ」一気に悟ったと花牟礼さんは言う。
そして、以前から取り揃えていた葦ペン水彩絵の具を取り出し、窓の外の風景を描き始めたのだそうだ。

 葦ペンは「ペン先のコンディッションや描き方で、思わぬ味のある表現が出来る」が、一方「失敗も多くてなれないと難かしい」道具だが、花牟礼さんのスタイルにぴったりあった。

 以来花牟礼さんは取りつかれるように水彩画を描き始めた。

 かつてゴーギャンは、生前フランス画壇から受け入れられず、それでもあの不朽の名作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこに行くのか」を残したではないか。
そのひそみにならおう。

 この年から花牟礼さんの挑戦が始まった。2004年2月のことである。

* どのように見せるのか
 花牟礼さんは通常の水彩画家ではない。同時にHP(ホームページ)を運営する管理者で技術者だ。時代の子と言えよう。

 もし、花牟礼さんがネットワーク社会以前に活動を始めたとすると、出版業界に出来た絵を持ち込み、それを出版してもらう以外第三者に知ってもらう手段はなかったはずだ。
しかし、誰でもそうだが初期の絵は稚拙だ。出版業界は躊躇しおそらくは断るはずだ。

 花牟礼さんは自分の水彩画をHPで見てもらおうとした。
たとえ稚拙であっても見てもらえる人がいれば、絵は進化する。
そのためにHP作成ソフトを購入し、懸命に勉強した。HPの技術的習得と水彩画の技術向上を同時に行なったのだ。

 それでも当初は「自分はこんな絵を描いてます」という感覚でHPを運営していただけだと言う。
しかしそれではアクセス件数が増加しない。
アクセスアップの方策として、大手サイトへの登録やリンクの充実」を図った。
さらに重要なことは「サイトそのもののみせ方、つまり訪問していただいた方々に本当に分かりやすく、見やすいサイトでなければならない」ことを痛感したのだと言う。
分かりやすく、見やすく」なければ人は再びサイトを訪問してくれない。

 花牟礼さんのHP(絵はがきにならない風景スケッチ)を見られた方は気づかれたと思うが、このHPはデザインが統一され、インデックスがしっかりと作られており、絵の順番に流れがあり、 絵ごとに丁寧なコメントがされている。

 人に見てもらうことを前提に丁寧に丁寧に作られたHPなのだ。

 
* 技術向上は人の目で磨く
 
このような努力の結果、現在までに約4万人の訪問者がこのHPを訪れ、激励や指導のメール交換ができるようになった。
メールを交換する相手の人は「元予科練経験という人生経験豊かな方から、現役の女子大生、同業のデザイナーや、各所の小・中・高校の教諭や校長先生、過疎地の学校の全校生徒」等非常に幅広い層になっている。

 この中で特に「私より若干人生経験豊富な、いわゆる団塊の世代の方々からの反響が多い」のだそうだ。
花牟礼さん
の描く田園風景や古い民家や城跡等が団塊の世代のノスタルジーにマッチしているからかもしれない。

 そして何よりも大事なことは、「絵を描いてHPで公開している」ことによって、花牟礼さんの水彩画は変わってきた。

 多くの人々とのふれあいから、花牟礼さんは水彩画を少しずつ進化させた。「人目で磨かれて」きたのだと言う。

サイトの中身の充実は、絵そのものの出来もありますが、付随するコメントやメールでのやりとりなど、つきつめて考えていくと自分自身の『人間力』が大きなウエイトを占めている
技術だけでなく、人間性の向上が絵に表れるのだ。

 初期の花牟礼さんの水彩画と昨今の水彩画との最も大きな違いは、描写の精緻性にあることがわかる。
かつては簡単な水彩スケッチだったものが、今では細部まで実に克明に描がかれるようになった。
見る人に感銘を与えたいと言う衝動が、そうした水彩画のスタイルを変化させているのだろう。

 激励や指導のメールを見ることによって「次はもっといいものを・・・・」と研鑽に励んでいるのだ。


* なにが独創的か
 花牟礼さんの水彩画は実に独創的だ。HPで公開しているから独創的なのではない。独創的なスタイルを考案したからだ。
水彩ストーリー」である。

 これは「水彩画」と「おはなし」を融合し、一種の「かみしばい」のようなもの、あるいは「絵本」のようなものをHP上で実現していると思えばいい。

 現在まで「花嫁の父」と「櫻島にて」の二作が上梓されているが、花牟礼さんが最も力をいれ、そして充実させたいジャンルだ。
単なる水彩画ではなく、水彩画による物語、さらに水彩画小説花牟礼さんが目指す方向のようだ。
絵に流れができ、見る人は絵を見ているというよりも物語を聞いている感覚になる。

 かつてゴーギャンはその独創ゆえにパリの画壇には受け入れられなかったが、花牟礼さんは水彩画というジャンルで果敢に独創性に挑戦をしている。

* 母よ、そして未来に
 花牟礼さんの現在を見ると、花牟礼さんお母さんの存在は無視できない。
かつて美術学校の学生だった頃「世間をなめた感じで遊び惚けて、荒れた生活をしていた」のだそうだが、ある日母親に自分の描いた絵を見せた。

 そのとき言われた言葉が「パレットが汚れているね。汚れたパレットでは綺麗な絵は描けないよ」という言葉だそうだ。
パレットという言葉を生き様に置き換えてみると、この一言が後から後から響いてきて、特に絵を描くときのコンセプトになってきた」のだという。

 美術学校の学生だった頃から約20年たち、再び筆と絵の具を持ったとき、花牟礼さんは「パレットを汚さない」人間になると決心したと言う。
母の言葉が20年の歳月を隔ててよみがえったのだ。

 花牟礼さんは一昨年、土気のあすみが丘の画廊で個展を開いている。大変好評だったようだが、そうした試みをおゆみ野でもしたいと思われているようだ。
やはり絵は人に見せるもの・・・人に見せることにより磨かれるものだ」からだ。

 わたしたちは若く、独創的で、意欲にみちた花牟礼さんの活躍に期待しよう。
いまはまだまだゴーギャンの高みには及ばないが、いつの日かこの地から日本のゴーギャンが出ないとは限らないのだから。


花牟礼さんの水彩画の製作過程を見せてもらいました
http://picasaweb.google.co.jp/yamazakijirou/2022?authkey=-eNvTEsRB8I

なお、花牟礼さんのHP(絵はがきにならない風景スケッチ)は以下のURLをクリックすると見ることが出来ます。
http://8760.y.mepage.jp/

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岩坂 展子さん

好きなことがそのまま仕事に

役員活動からパン教室の先生になるまで

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人生を自然体で生きているうちに、気がついたら自分の好きなことを仕事にしていたという幸運な人がいるものだ。岩坂展子さんもその一人ではないかと思う。千葉にやってきたのは20年前、娘さんが幼稚園の頃だった。

通いはじめた聖母マリア幼稚園のバザー部の部長を皮切りに、誉田小の役員や小谷小の保護者会会長など、気がついたら11年も役員活動をしていたという。「小谷小で育てた落花生をこやつ祭りで売ったりしてすごく楽しかった」と当時を振り返る。

「役員は大変でしょうといわれるが、役員を終わった後、十何年たってもまだ一緒に活動した人とつながっている。そのおかげで、おゆみ野が今どうなっているかという情報を得ることもできるんですよ」と話す。「今振り返ると、よくやってきたなぁと思うけれども、全然苦ではなかった。そこで学んだのは、人の考えはいろいろ違うということ。それが自分の人生だけでなく、子供を育てる上でも参考になりました」。

子宝パン教室の異名も

岩坂さんがパンを習い始めたのは娘さんが幼稚園の時だ。パンの他にもフラワーアレンジメントや着付けも習ったという。そうこうするうちにパンの先生の免許を取って、クチコミで3人くらいに教えはじめたのが、パン教室の始まりである。その数はどんどん膨らんで、最盛期には4050人の生徒さんを抱えていた。1グループ6人としてもほぼ毎日教えたことになる。子育てに忙殺されて行くところもないお母さん方にはありがたい居場所になったことだろう。「子宝パン教室」という異名もあって、生徒さんが次から次へと妊娠してまた子連れでやってくることもあったという。

しかし、毎回2種類のパンと季節のサービスメニューを用意するためには、周到な準備が必要だった。オーブンを何回も使うので、そのタイムスケジュールを上手に組まなければならない。物事をてきぱきと進めていく能力が岩坂さんにはおありになったのだろうと思う。役員活動にもその能力が生かされたに違いない。

「役員活動の1年目はやったというだけで終わってしまう。2年目にようやく予測ができる。そうなって初めて皆なの意見を吸い上げることができるようになるし、根回しもできるようになる」と岩坂さんは説明する。

個人的な経験だが、一緒に小学校の本部役員を経験した仲間と食事をしていて、「役員も1年半がいいところじゃないかしら」という話になったことがある。私も2年やらせてもらったが思わずそれに同意してしまった。1年めは燃えていてそれで終わるのは少し寂しい。ところが2年めをやっていると、正直だんだん飽きてくる。その意味で、長期にわたって役員を続けられる人には、特別な能力があると思う。長い時間をかけて花を育てるような忍耐力と関心の対象が我が子にとどまらない包容力を持っている。

岩坂さんのように好奇心を持ち続け、さらにそれを深めていこうとする能力は一体どこからきたのだろうか。話を聞いてみると、呉服屋の娘として生まれ、共働きの両親によって躾や作法を教え込まれ、辛抱を徹底的に体で学んだからではないかと思われる。参考にしたくても、現代の一般的な家庭では、もはやまねできないことかもしれない。

10年間、大縄跳び大会でお餅を提供

今回、岩坂さんを紹介するきっかけになったのは、10年以上前から続いている大縄跳び大会で、毎年お餅を提供されていることを知ったからだ。大縄跳び大会は、泉谷中学校区の青少年育成委員会のリクリエーション部が行う行事で、区内の小中学生を中心としたチームが大縄跳びを競うというものだ。その参加者や応援の人たちに、つきたてのお餅を食べてもらおうと企画したのが岩坂さんである。昨年は800食用意した。もち米にして60kgである。もち米の下準備はもちろんお醤油や黄粉、のりの準備、杵や臼の手配など、毎回、全体計画の指揮を一人でこなしてきた。「大変だったけれども楽しかった」と岩坂さんは言う。

しかし、残念ながら今年122日に開かれる大縄跳び大会からはお餅の提供はない。「一人でもやろうよと言って下さる方がいたらやれるのだけれど、皆さん引いてしまわれるんですよね」と岩坂さんも寂しそうだ。おゆみ野の今後は、こうした善意のボランティアをどうやって引き継いでいくのかが課題なのかもしれない。

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福谷 章子さん

主婦から千葉市議会議員になった福谷章子さん

街は誰がつくるのか?

「菜の花里美発見展」が地域に残した課題とは

 福谷章子さんに初めて会ったのは11年前、福谷さんが代表を務める「おゆみ野女性の会」の会合だった。福谷さんは、その前年に「ともに生き、育ち合う地域社会づくり」をテーマに泉谷小の保護者会の役員経験者を中心メンバーとした会を立ち上げていた。会合の議題は初めてのイベント「子育てわいわいトーク」の企画についてだった。アサパルというミニコミ誌の取材のために出かけた私は、主婦が自発的に問題提起し、テキパキ行動するのを見て驚いた。その後、福谷さんは、コミュニティ懇談会の事務局長として「こみこん祭り」を立ち上げたり、泉谷中の保護者会会長や青少年育成委員会会長などを歴任し、現在は「市民ネットワーク」から出馬して千葉市議会議員になられている。

 「おゆみ野女性の会」はその後も「おゆみ野子どもまちづくりクラブ」や「いきいき子育てミニフォーラム@おゆみ野」などの会に分化つつ、本体自体も「おゆみ野地区の高層マンション建設問題」についての研究会を開くなど、常にタイムリーなテーマで活動している。福谷さんと中心メンバーの方々が自分のお子さんたちが育った後も、「子どもの問題」、「子育て中の親の問題」、「地域の問題」に関心を持ち続け、行動しておられるのには感心する。

「菜の花」の残した負の遺産

 ところで、福谷さんと聞くと私にはどうしても2002年に行われた「菜の花里美発見展」(以下「菜の花」)を思い出してしまう。今回、福谷さんにお話を伺ったのは4月だったが、私はいまだにこの問題をどうまとめていいのか逡巡している。この間、「菜の花」に多少なりとも関係した人に会うたびに、5年前の出来事について感想を聞いているが、皆な一様に古傷のようなものを抱えていて、「何で今さらそんなことを蒸し返すのか」と聞き返されるくらいである。            

だからこそ伝えたいと思う。プロジェクトを持ち込んだ旧・都市公団やアートディレクターの北川フラム氏、彼の呼びかけに応じて参加した美術・建築系の大学関係者たち、そして賛成と反対に分かれた地域の組織の人たちに、「負の遺産はまだ残っているよ」と。私自身もおゆみ野に13年間暮らしておゆみ野を愛したいと思いつつ素直に愛せないでいるのはこの問題が心のどこかに引っかかっているからなのである。

 

「菜の花里美発見展」とは「まちづくり研究会」のメンバーだった旧都市公団と東急不動産が、「千葉のニュータウンのポテンシャルをあげ、活性化したい。アートを使ったイベントを仕掛けたい」ということで、アートディレクターの北川フラム氏に持ちかけたものだ。

 最終的に22大学38のゼミが参加し、47回の「コミュニティ出前講座」と16回の「街なか劇場」と銘打ったイベントが、おゆみ野、ちはら台、あすみが丘、季美の森で約1ヶ月にわたって行われた。

福谷さんは「菜の花」のおゆみ野住民の受け皿となった「チームおゆみ野」の代表だった。今こうして福谷さんから頂いた160ページに及ぶカラーの「菜の花里美発見展記録集」をめくってみるとアートってすごいなと思う。人々の思いとは別に、写真に撮られ記録に残り作品となる。秋の道で手作りの二人乗りカートのスピードを競う「おゆみのグランプリ2002」。夏の道で開かれた「蚊帳のウチ」。ペットボトルで作られた「光のコンビニ」。これは携帯かインターネットを利用するとどこからでも光るという仕掛けである。こんなことがあると知っていたら子どもにも体験させてあげたかったなと正直思う。

 「プロジェクトの開始をつげる芸大の田甫律子先生の白い風船が青空にすぅーと上っていった時、今までのもやもやしていた気持ちが吹っ切れて、よしやろうという気持ちに変わった」と福谷さんは言う。2002年7月7日、あきのみち公園でのことである。この「菜の花」こそ、福谷さんに一度は落選した千葉市議会議員選に再度挑戦させるものだった。「私は公人となって物事がいつ誰によってどのように決定されるのかを知るポジションにつこうと決意した」(福谷さん)という。

「菜の花」は最初から波乱含みだった。記録集によると、2001年秋にこの話が北川氏に持ち込まれた。2002年1月に北川氏から美術・建築系の大学に呼びかけられ、2月10日に大学ゼミに対する説明会、3月17日に現地見学会、4月2日に街中劇場、出前講座のチームが結成、4月下旬に住民説明会が開かれた。

 おゆみ野で最初にこの話が行ったのは、自治会連合会の44連協だった。しかし、「防犯上問題がある。公団の営業戦略の手伝いはできない」と一蹴されてしまった。その代わりに当時、泉谷中の保護者会会長で青少年育成委員会の副会長でもあった福谷さんに白羽の矢がたった。「子どもまちづくりクラブ」を立ち上げていた福谷さんは「こんな企画をぜひ子供たちに体験させてやりたいと思い請け負った」という。

決裂した住民説明会

 4月27日のおゆみ野の住民説明会は決裂した。「菜の花」に反対していた当時の小学校保護者会長のひとりによると、説明会で渡された地図では既におゆみ野は十数個に区割りされ、「あなたの席はこちらです」と地区別に座らされた。「まるで占領下の植民地のようだった」と振り返る。当時おゆみ野は空き巣や盗難が相次ぎ、不審者も出没していた時期だった。各学校の保護者会でもパトロールが強化されていた。説明会である学生から「おゆみ野道は汚くて問題がある」と指摘された時、「頭にきた」とその人は言う。「そんなことは言われなくてもわかっている。ちょっと街に来ただけで、失礼なことを平気で言うなんて、住んでいる住民をばかにするな」と吠えたとも。

 かたや「チームおゆみ野」のメンバーの1人は、「こちらが説明しようとしているのに、自治会関係者はいきなりマイクを引っつかんでとうとうと反対演説を行った。まるで、右翼かヤクザのようだった」とこちらも怒りを隠さない。 

 結局その場は、参加していた大学関係者の方から「確かに説明もなしに自分の住んでいる街に大勢の人が入り込んできたら自分も嫌だと思う。一度仕切り直しをした方がいいのでは」と提案してお開きになった。反対した人たちは「すぐまた説明会が開かれると思い待ち続けていたが、説明会は開かれることなくイベントが始まった」と不信感を持ち続ける。

 一方、福谷さんたちは、動揺する学生たちに「これがおゆみ野の現状です。それでもやりましょう」と説得した。「参加していた昭和女子大の杉浦久子先生たちも『こんなのおかしい』といってバックアップしてくれた。公団からも『何とか成功させてくださいよ』と泣きつかれた」(福谷さん)という。こちらはこちらで、自治会や保護者会という既存の組織に自分たちの活動をつぶされるという危機感を募らせた。 

 最後まで両者は歩み寄ることはなかった。しかし、立場こそ違え、そこに集まった人たちは、地域に愛着をもつ人たちであったのだ。「街は一体誰のものなのか?」「街をつくるのは誰なのか?」。それは「菜の花」以降、ずっと私たちに突きつけられた問題である。

「菜の花」がトラウマのように関係者の心に残ってしまった理由の1つは、「個人」と「組織」という言葉を双方とも体よく使ったことである。記録集(8ページ)にあるが、事務局の前田礼さんは「私たちは組織に対して呼びかけるのではなく、個人の有志に対して呼びかけようとしていた」。これは嘘だと思う。それなら最初から44連協に協力を呼びかけなければよかったのだ。一方で、「自治会」「保護者会」も「会としては反対です。でも個人の参加はご自由に」という姿勢をとった。これも詭弁だと思う。私は保護会の役員だったが、私にとってはイベントより周りの人間関係の方が大事だったのでいっさい「菜の花」にかかわらなかった。

ところが、主催する大学関係者の中に私の大学の同級生がいたのである。私は一度も彼女のプロジェクトを訪ねなかったが、心のどこかで「私は、もっと彼らのやろうとしていることを知るべきではなかったのか」という思いがつきまとった。あの時はまるで手を縛られたような不自由さを感じたのである。それが今に続くトラウマだと言ってもいいと思う。

企画の内容が議論されず筋論に終始する

「菜の花」は企画自体が議論の対象とならずに、筋論ばかりが議論されてしまった。本当にこの企画が街にとって有効と信じるならば、もっと直接的に住民に知らせて問うという方法もあったのではないだろうか。さらに必要なら開催時期を遅らせるという判断もあったのではないだろうか。「菜の花」は地域のポテンシャルを上げるために一番大切な、住民の共通認識をもたせるという部分をはしょってしまったように思えて仕方がない。

この原因は、主催者が街の都合とは関係なく、プロジェクトを限られた期間で、「行うべきもの」として進行させてしまったからではないかと思う。半年にも満たない期間で、街を知り、住民のコンセンサスを得て、住民とともにイベントを行うとすれば、打ち上げ花火にしかならない可能性は大きい。それなのに「ニュータウンからアーバンビレッジへ」といった難しいコンセプトを打ち出したりするから話が難しくなったのではないかと思う。公共事業によくある、単年度で消化しなければならない予算のあり方にも問題があったのかもしれない。

一方で、外部からの資本や提案を受け入れる街の住民も、住みはじめて数年たらずで自分の周りのささやかな関係を保つことに精一杯で、街全体と自分のかかわりを把握できない時期にあったと思う。「自治会」や「保護者会」といった既存の組織も反対を表明したものの阻止することもできず無力を露呈してしまった。予算3000万円ともそれ以上とも言われているこのイベントが街の一部の人たちしか享受できなかったのは残念なことだといわざるを得ない。

しかし、「菜の花」の記憶を風化させてはならないと思う。今後外部からの資本が投下される時、それに対応する住民全体のコンセンサスをどういう形でまとめ、行動していくのかを考える”意味のある経験“に変えていかなければならないと思う。

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金坂 邦郷さん

  おゆみ野で最初のHPを作成した 金坂邦郷さん

「おゆみ野タウン情報」を立ち上げ18年

近年はフェイス・ツー・フェイスの活動も  

Sany0115_3  金坂邦郷さん(58歳)は平成元年におゆみ野に引っ越してから「おゆみ野タウン情報」というホームページを立ち上げ、18年間これを維持している。私たちのブログ「おゆみ野ウォーカーズ」も昨年8月に金坂さんのHPにリンクさせてもらって以来、アクセス数が飛躍的に伸びた。  金坂さんが引っ越してきた頃のおゆみ野は、鎌取駅とラ・ピア(トップマートの前身)と泉谷小と泉谷中があるくらい。住宅も昔からある有吉と六通の他には、すずかけ街とかつらみずき街だけというスカーンとした街だった。その後、おゆみ野の人口は急増した。当時4,000人くらいだった人口は平成19年現在ではその10倍を超える41,500人ほどになった。

転入者からのメール問い合わせ相次ぐ  

   今でこそおゆみ野を紹介するHPはいくつもあるが、当時は「おゆみ野タウン情報」だけ。インターネットが注目されはじめ、金坂さんのところには遠くから転入してくる人たちからの問い合わせが相次いだ。「ありがとう。助かりました」というメールが励みになった。朝6時の電車に乗り、夜8時ごろ帰宅するサラリーマン生活を続ける一方で、休日はHPづくりに没頭した。小学校の頃からラジオを作ったり、無線に凝ったりするメカ好きの少年だった。 金坂さんのHPがとても見やすいのは、既存のホームページビルダーのようなソフトに頼らず、テキストエディターで思い通りにページを作っておられるうえに、外からの質問を踏まえてコンテンツが構成されているからではないかと思う。「医療施設」「高齢者福祉」「教育機関」などがそうである。中でも「おゆみ野BBS」では「泉谷中の荒廃」や「新日鉄跡地に立つ高層マンション」「ジャスコ前の駐輪場」などタイムリーな話題が登場する。サイトの認知度の高さが伺える。 金坂さんは掲示板の管理人として、「今までは住民も日頃の生活に追われ、自分の街をしっかり見ようという気持ちがなかった。言ってみれば街はビジネスホテル並みだった。泉谷中が荒れたのも取り巻く地域の問題を反映していたと思う。しかし今は自分の周りにどんな人が住んでいるかがわかり、落ち着いたコミュニティが形成されてきたと思う。」と振り返る。

コミュニティの活性化を加速するために

   そして今後について、「HPだけでなく、人と人の顔がわかるような活動をしてコミュニティをもっと活性化させたい」と金坂さんは意気込む。既に4年前から金坂さんのご自宅では毎年12月にクリスマス・コンサートを開いている。コンサートはフルート教室を主宰する娘さんとその仲間が集まって開かれる。娘さんは、千葉県がんセンターのターミナルケアの患者さんたちにもボランティア演奏する予定だ。 お話を伺った金坂さんの家は、広い玄関に続いて、グランドピアノの置かれたフルート教室、明るくて居心地のよいリビングとなんとも言えず素敵な空間だった。このリビングで奥さんは週1回ケーキ教室を開いている。独立された息子さんは仕事の傍ら作曲し、このほどCDも出した。彼の作曲した「追想」というピアノ曲は「音楽の泉」というサイトで1位になったこともある。なんともうらやましい一家である。 ところが、奥さんによると「大変の時期もあったのよ」と打ち明ける。「子供たちがそろって不登校になって、どうしていいかわからない時もあった。けれども今は、息子の曲を聞いてどうしてこんな曲がつくれるのか思うくらいきれいな旋律だと思う」とも。子育てや不登校で悩んでいる方がいらしたら、ぜひ奥さんのケーキ教室へ行ってみてほしい。今でも奥さんは「コーロ・ルーチェ」という合唱団や不登校の母親の集まりである「母の会」に参加されている。金坂家は家族全員が自分のHPを持っている。音楽とインターネットが家族の共通点である。「お金ではない価値観、目に見えない価値観がある。みんなに喜んでもらえることをすることがこの街を良くしていくと思う」(金坂さん)。 皆さんもぜひ、クリックしてみて下さい。

おゆみ野タウン情報(金坂さん) http://oyumino.kanesaka.jp/

喜美子のケーキ工房(奥さん) http://cake.kanesaka.jp/ ★ケーキの注文も可

おゆみ野フルート教室(理和さん) http://flute.kanesaka.jp/ ★入会案内あり

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山崎 次郎さん

14年間ゴミ拾いを続ける山崎次郎さん


「私は私のプランで生きていきたい」

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 山崎次郎さんはスポーツマンである。14年前、都内からおゆみ野に引っ越してきて、夏の道やおゆみ野道で通勤前にジョギングを始めた。ところが、下を向いて走るくせがあるので、ゴミが目について仕方がない。きれいな道で走りたい。まだ現役のサラリーマンだった山崎さんは家から鎌取駅に着くまで、毎日背広姿でゴミ拾いを始めた。休みの日は四季の道全体の清掃を行った。ずっと1人で活動していたが、昨年の末ごろにIさんと出会い「おゆみ野を美しくする会」を立ち上げた。その後、近所の70歳過ぎのおばあちゃんが加わり3人に。今また2人が加わって総勢5人になった。日頃は自分の持分を出来る範囲で担当し、合同活動日には鎌取駅周辺を清掃する。山崎さんの夢はおゆみ野を世界一きれいな街並みにすることである。定年後の今は毎日、7時から9時の間、四季の道を回って清掃する。

 山崎さんの活動は「おゆみ野四季の道」(http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/で毎日UPされている。ちなみに山崎次郎という名前はペンネームである。かつてシナリオ教室に通い、そこで新人賞をとり、それを某テレビ局が放映したいと言う話があったという。山崎さんは趣味人でもある。

  お話を聞かせて頂いて私はとてもショックだった。ゴミ拾いは誰でもできそうなことだが、それを10年以上続けるのは凡人にはできない。同じように定年になったから、何もすることがないからボランティアでもやろうなんてことは土台無理なのではないかと思えてきたからである。それでも敢えて、「なぜ続けられたのか」と聞いてみた。「私はスポーツマンだから、いったん始めるとやめないんですよ。同じことを同じ条件の下で繰り返す。ゴミ拾いは私にとっての運動トレーニングのようなものです」。
 おゆみ野に来る前、35歳から40歳のころはホスタープランといって、日本人と外国の貧しい国の子どもたちとの手紙のやりとりを英訳したり、和訳したりするボランティアをやっていた。「少しでも人の役に立ちたい。ボランティアと聞くと心がうずく」と山崎さんは言う。

 しかし、会社の方はどうなっているんだろう。同じ団塊の世代の夫は、家でも夜遅くまで仕事をし、朝ジョギングなんてとんでもない話である。山崎さんの言葉を借りれば、「自分の仕事はきっちりこなしていたが、夜の酒席は一切断り、マラソンの練習に当てていた。周りからは変わり者と見られていたが、仕事はそれなりにしたので、年を取るにしたがって『彼はそうした人間だ』と認めてくれるようになった。その代わり出世とは無関係の人生だった」 ということらしい。
 それでも「組織の中で居心地が悪いということはなかったのか?」としつこく聞いてみた。すると「私は私のプランで生きていきたい。会社のプランや他の人のプランではなく。それは小さい頃からそうだった」と答えてくれた。「私は私のプランで生きていきたい」。誰もがそう願っているが、煩悩やら周りの状況やらに囚われる。あれもこれもと欲張って、自分が本当に生きたい人生が何かすらもわからなくなってしまう。いろんな質問をするたびに、最後に返ってくる答えは「私は私のプランで生きていきたいから」というものだった。このアイデンティティの強さこそが、山崎さんの生き方を可能したのだと思う。もちろん、それを支える能力は言うまでもないことだが・・・。
 

「ボランティアをしていいことは?」という問いには「友だち関係が平等になること。最近、友だちがやたら増えた。ゆるやかな連帯こそがボランティアを続けていける秘訣では」と教えてくれた。見方を変えれば、山崎さんの生き方は組織に対する強烈なアンチテーゼともいえる。組織というものはどうしてもその中で上下関係が生じてしまう。上下関係は突き詰めると利害関係である。そんなものは会社で十分。ボランティアの世界は肩肘はらず、自分の能力を生かして楽しみながら続けたい。ボランティア活動の本来の姿により魅力を感じるのは私だけだろうか。

 私は、山崎さんは「夜回り先生」に似ているなと思う。10年以上、毎日夜出かけて、街でふらふらしている子どもたちに声をかける。マスコミに注目されたのは最近のことだけれど、彼にはそんなことは関係ない。誰も夜回り先生と同じにはなれないけれども、心で子どもたちのこと思いやれる。同じように、おゆみ野でもゴミを拾う人が増えてきた。ゴミを捨てる人も減ってくるだろう。これも、山崎さんが一人ではじめられた活動がきっかけであったと思う。

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河村 義人さん

おゆみ野在住作家のデビュー作「子どもたちへのブンガク案内」

「私の本質は、文学である」と宣う河村義人さん
ついに本を出す

 あなたは、「これが自分だ!」というものを持っているだろうか?
恐らくそれさえあれば、どんな状況でも生きていける。まさに「生きる力」である。
特に定年後は最高だろうなと思うのである。
 村上龍は「13歳のハローワーク」の中で、13歳から「作家になりたい」という相談を受けたら、「作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ」とアドバイスすると書いている。
 河村さんはまさに、これを地でいっている。昭和37年生まれ。早稲田大学文学部で中国文学を専攻し、今は現役の銀行マンである。2005年の6月に「親なら読ませたい名作たちーー子どもたちへのブンガク案内」を出版し、念願の作家デビューを果たした。
 発刊当時、おゆみ野のつたやにある精文館書店やイオンの未来屋書店鎌取店にも平積みされ、おゆみ野の在住の作家の作品と紹介された。河村さんは有名な作家と並んで自分の名前の本が並んだを見て特別な感慨があったと話す。
 さて、その本だが、河村さんの喘息持ちの娘が「毛が生えていないからという理由で」カジカカエルを飼い始め、それをしげしげ眺めているうちに、カエルにちなんだ俳句などを娘に教えてやろうかと思ったところからスタートしている。芭蕉などに続いて著者が紹介しているのは島木健作の「赤蛙」である。私はこの「赤蛙」の話に自分を投影し勇気付けられたが、河村さん自身もそうではなかったのかと勝手に想像したのである。
 「赤蛙」の話とは、肺を病んだ島木健作が修善寺温泉で一匹の赤蛙を見かけ、その行動を描写した小説だ。詳しくはぜひ河村さんの本を買って読んでいただきたい。私の理解したところでは、「赤蛙が人間の目から見れば無意味で不可解な行動を繰り返し、いよいよ精魂尽き果てて、桂川の中洲の突端にしがみつくが、そのうち力も失せて渦巻の中に飲み込まれていく。それを見た主人公は、力に余る困難に挑むことそれ自体が赤蛙の目的意志だったのではと考え、自然界の神秘を深く感じたというものだ。・・・何か眼に見えぬ大きな意志を感じてそこに信頼を寄せている感じ・・・」。
 40歳を「不惑」というが、どうして40歳過ぎて50歳に近づいてもますます迷ってしまう。そんな時に、文学が自分の行く手を示してくれるということがある。この本にはそうした親の生きた証として子どもへ伝えたい話が詰め込まれていると思う。「版元からの一言」で「我が娘に読んでほしい本とその読み方の方法をちょっとマニアックに紹介」とあるが、こだわりとはそういうものだと思う。「自分の主観だけが頼り。自分がいいものはいいんだと信じることが本を読む秘訣だ」(河村さん)とも。
 河村さんは第2弾として「おいしいブンガク話(仮)」の出版を計画中である。
 さて、本を出そうかと考えている人のために、河村さんの出版までの経緯を紹介しよう。

 河村さんは5,6年前から自分が感動した本についてなぜ自分は感動したかをまとめてみようと思い始めた。そうして4年くらい前から東京への通勤時間を利用してノートにメモを書き続け、それを家に帰ってパソコンに打ちこむ作業をくり返したという。そして今回の企画を立ていろんな出版社にあたったが、当初は共同出版か自費出版しか道がないようだった。ところが、NPO法人「企画のたまご屋さん」に出会い、企画を応募。「企画のたまご屋さん」が全国の出版社250社約500人の編集者にメールを送り、その中の飯塚書店の編集者の目に止まり発行となったのである。「編集を担当した22歳くらいの若い女性にお尻を叩かれながら、執筆したんですよ。僕が作った俳句や短歌や反戦詩なども入れておいたのに返ってきた原稿をみるとバッサバッサと削られていたりしてね」と笑いながら振り返る。河村さんの将来の夢は、大学の先生になること(専門は日本文学か中国語)、もっと言えば子ども向けには漢詩文を素読させる「寺子屋」を、大人向けには現代中国語による漢詩教室を開くこと、だそうだ。

 河村義人さんの本を買いたい方はこちらまで

http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-7522-6007-7.html

 または、こちらまで。

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岡村 奈保さん

泉谷中はどうやって再生したか?

元・泉谷中学校PTA会長

岡村奈保さん

 岡村奈保さんは現在、学校評議員の他に、民生委員・児童委員の泉谷中学校区の地区担当をしている。地区内で問題を抱えた子供たちのために、小中学校や児童相談所、児童福祉施設と連絡を取り合い、対応を図る仕事である。
 これほど岡村さんに打ってつけの仕事はないだろう。なぜなら、3年前逮捕者が出るほど荒れた泉谷中の保護者会の会長を引き受け、昨年度の「新生泉谷中」、今年度の「誇れる泉谷中」へと移行する橋渡しをしたのが彼女だからである。ちなみに昨年度はソニー教育財団の子ども科学教育プログラム最優秀プロジェクト校賞に輝くまでになった。しかし、そこまでにたどりつくには、学校も保護者会も並々ならぬ決意が必要だった。

盗難、破壊が横行する学校

 2年前、娘が泉谷中学に入学したばかりの頃、雨が降り出して傘を届けに学校にいった。ところが、傘立てがない。でもまあいいか。小学校の時と同じように持ってきたことがわかるように靴箱に引っ掛けて置いた。
 ところが、その傘が折られて返ってきたのである。その折れた傘の柄で胸をグサリと刺された気がした。傘立てが撤去されていたのも盗難のためであり、休み時間に全室に鍵がかけられるのも盗難や破壊活動を防ぐためであった。
たかが傘である。ジャージを盗まれたり、制服を盗まれたりした人に比べれば、ラッキーだったかもしれない。でも、涙がこぼれた。それは、「なぜこんな中学に娘を入学させてしまったか」という後悔である。できるならば、犯人を探し出し、その親ともども謝罪してほしいと強く願った。
 私はその怒りを、当時の白濵正人校長と岡村さんにぶつけ、泉谷中の保護者会が発行する広報紙「トライアングル」で紹介した。その時の彼らの真摯な態度――問題を隠匿するのではなく、むしろ明かせるだけ明かし、保護者と教師で協力して解決したいという強い決意を知り少し安心したのであった。
すさんだ内情を晒す広報紙の発行が可能になったのは、校長先生と岡村会長に勇気があったからであり、さらには両者の信頼関係がゆるぎないものであったからだと思う。これも岡村さんのコミュニケーション能力の高さゆえではないかと思う。
 余談だが、この広報紙は市内の中学校で話題を呼び、ある校長はすぐに白濵先生を訪ねてきたし、ある学校では職員会議で職員全員にコピーして配られた。それほどまでに、中学校の荒れた問題は泉谷中に限らない普遍的なものだったのである。

親を責めるだけでは解決しない

 ところで、私は自分が担当した広報紙の自慢をしたいわけではない。実は、広報紙の記事を書いた時点でも、犯人に対する怒りは収まっていなかった。ところが、岡村さんや先輩のお母さん方に会ううちに、考えがかわってきた。いわゆる「ワル」と呼ばれるような子供たちに対する眼差しが変わったのである。 
 岡村さんは、再三再四「彼らの置かれた環境を考えると、荒れ方がよくあの程度で収まっていると思う」と話す。「学校から帰っても親は夜遅くまで帰ってこないし、夜のご飯も作ってもらえない。朝起きても、親はいなかったり、寝ていたりして、朝ごはんもろくろく用意されていない。それなら学校に行かなくていいかという気にもなる」。
 「そういう子育て放棄の家庭環境に対して、親にちゃんとしろというだけでは、もはや解決できない。なぜ親はそうなったのか。そういう環境の中でその本人を地域がどのようにサポートできるかを考えなくてはならない」(岡村さん)。         
 ところが、まだまだ、「親を変えろ。悪いことをした人間は名前を公表し、社会的な制裁を加えられるべきだ」という考え方をする人が特に年配層に多い。「福祉の考え方では、その子の未来を考えると絶対に名前は伏せられなければならないはずなのに」と岡村さんは憂う。福祉に対する考え方のギャップが、この問題の解決を遅らせているようだ。
傘を折られて激怒した私も最初はそうだった。しかし、卒業文集などで、そういう子供たちの「俺のことを忘れないでくれ。声をかけてくれてありがとう」といった仲間に対するメッセージを読むにつけ、彼らの心情を思いやることもできるようになった。
 それに、自分の子供だけを守るなどということはどだい無理だということにも気がつかされた。学校全体、地域全体をよくすることでしか教育の問題は解決できないと思う。公立中学に子供を入れてよかったことは、子供に社会の縮図のような世界で生きることの難しさを経験させられることと、親の視野が広がる事ではないかと思う。

たかが制服、されど制服

 2005年の11月5日に泉谷中では徹底した制服指導を行い、制服の着方のグレーゾーンを排除した。スカートは膝をついて床につく長さ。シャツだら、腰パンは禁止。茶髪禁止。違反した生徒は家に帰して直るまで校門から入れない。数週間にわたって保護者も校門や玄関に立って協力した。
 これを決行するまでの学校側の根回しは大変だった。まずは先生方の徹底した心構えの統一を図り、保護者の理解と協力の呼びかけ、教育委員会などへの説明を行った」。予め校門から入れないと予測される子どもの保護者にも再三協力を依頼した。
 「ただ制服をきちんと着るという一つの単純なコンセプトを実現するために1年5ヶ月かかった。そのために多くの人が労力と時間をかけた」と岡村さんは振り返る。実際、Xデイ以降もトラブルはあった。学校もその対応に夜の9時10時まで縛られたこともあったという。岡村さんはそれを保護者の代表としてサポートした。そのおかげでXデイ以降あっけないほど学校は沈静化した。荒れていくのはあっという間だったが、それをもとに戻すのがどれほど大変なことかを思い知らされたのである。
 岡村さんは、大学で心理学を学んだ後、大学院で美術史に転向した。途中でご主人の仕事の関係でドイツに行き、そちらの大学でも学んだ。
 先日、アメリカの大学で韓国人学生が銃の乱射事件を起こしたが、ドイツでも数年前、同じような事件が起きた。その時も、「親は関係ない。ドイツではそういう子供を社会でどう受け入れていくかが議論の中心だった」と岡村さんが話していたのを思い出す。
 「私は公立の中学・高校に通っていた頃、世の中に対していつもイライラしていた。女はこうあるべきだという社会からの無言の圧力を感じていたからだと思う。ところが、28歳でドイツに渡ってほっとした。個人としての意見が通用する社会に来てやっと自分の居場所があったという気がした」(岡村さん)と振り返る。ドイツの経験も今の仕事に生かされているようだ。

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泉 周佑さん

リタイア後の団塊世代の新しい活動形態に期待

都川源流の自然再生をはかる会

代表; 泉 周佑さん

 インタビューして元気になれればこれほどいいことはない。5月9日に「都川源流の自然再生をはかる会」のお話を聞くついでに作業に参加した私は久々にこの気分を味わった。
 場所は小谷小の夏の道に平行してある管理用の車道の脇に広がる斜面である。ちょっと見ただけではそこに森があるとは誰も気がつかないだろう。しかし、中に入ればうぐいすが鳴き、サンショの木もあるような心安らぐ場所だった。
その日は既にメンバーのうち5人が作業をしていた。びっしりと斜面にはえた笹竹を刈る人、恐ろしいほど大量のゴミを分別しながら拾う人、切った丸太で即席の階段を作る人。それぞれが黙々と作業をしていた。
過去2回の活動ですでに刈られて歩けるようになった道を、泉さんに案内してもらい、池の近くまでいってみた。暑い日だったが、森はひんやりとして気持ちよかった。
 

ゴミを拾う山崎さんとの出会い

泉さんはおゆみ野に来て3年目。元・日航のパーサーだったという。長身で8等身というスタイルの良さ。さぞかし制服が似合っただろうと思う。この泉さんが遊歩道を歩いていて出会ったのが山崎さんである。
山崎さんはおゆみ野に住んでいる人ならば、一度は見かけたことがあるだろう。コミ袋を持って遊歩道を毎日歩いておられる方だ。しかも10年にわたってである。現役時代はスーツ姿でゴミを拾いながら駅に向かったという。「おゆみ野四季の道」というブログも開いておられるのでぜひみてほしい。
この二人が出会ったことがすべての始まりだった。二人とも60歳の定年を迎えたばかりの団塊の世代である。泉さんは、その後、千葉市のエコリーダー育成講座に出席し、そこで土気のあすみが丘に住む広島さんと若葉区に住む粟飯原(あいはら)さん、野田さんと出会う。結局、講座卒業の実習の場として、この都川の調整池が選ばれたというわけだ。そこに、近くに住む稲川さんが参加した。
「泉さんが活動されているのを見て本当は近所に住む私たちがやらなければいけないのに申し訳ないと思い参加した。それに山崎さんがゴミを拾っていらっしゃるのは前から知っていたから」(稲川さん)。「講座の間、泉さんから山崎さんのことを聞かされた。一体どんな人かと顔が見たくてやってきた」(野田さん)。「泉さんの人柄に魅かれてやっている」(粟飯原さん)。まさに場所を越えて人が人を呼んでいるのである。
しかもメンバーは「大草谷津田」のボランティアや「昭和の森での自然観察」のボランティアなどをかけもちでやっている。

いい男たちには女性が集まる?

極めつけはちょうど休憩時間に合わせてやってきたKさんだろう。冷えたお茶と食べやすく切ったメロンやミカンそれにお菓子。「山崎さんを尊敬しているから」といって差し入れを持ってきてくれた。山崎さんの元・同僚の奥さんである。
山崎さんのブログを見るとこの日のことを山崎さん自身もとても驚いていらっしゃったようだ。「女性がきてくれて華やいだ」と書いてあった。私たちもおばさんだけど、少しは役に立つかなと思ってしまった。
学歴も職歴も関係ない。私利私欲もない。上下関係もない。住んでいる場所も関係ない。ただ人柄と能力とボランティア精神だけでつながっている。自発的ということがこれほどまでに気持ちがいいものだと改めて感じた。
できるならば、この森の使い手も、自己責任の中でここを使ってもらいたいと思う。間違えても、危ないからといって管理が厳しくなったり、柵で張り巡らされたりしないでほしい。それがこの森の再生を願う泉さんたちメンバーに対するお礼だと思うのである。

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