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2007年6月

山崎 次郎さん

14年間ゴミ拾いを続ける山崎次郎さん


「私は私のプランで生きていきたい」

Yamazakijiro_1
 山崎次郎さんはスポーツマンである。14年前、都内からおゆみ野に引っ越してきて、夏の道やおゆみ野道で通勤前にジョギングを始めた。ところが、下を向いて走るくせがあるので、ゴミが目について仕方がない。きれいな道で走りたい。まだ現役のサラリーマンだった山崎さんは家から鎌取駅に着くまで、毎日背広姿でゴミ拾いを始めた。休みの日は四季の道全体の清掃を行った。ずっと1人で活動していたが、昨年の末ごろにIさんと出会い「おゆみ野を美しくする会」を立ち上げた。その後、近所の70歳過ぎのおばあちゃんが加わり3人に。今また2人が加わって総勢5人になった。日頃は自分の持分を出来る範囲で担当し、合同活動日には鎌取駅周辺を清掃する。山崎さんの夢はおゆみ野を世界一きれいな街並みにすることである。定年後の今は毎日、7時から9時の間、四季の道を回って清掃する。

 山崎さんの活動は「おゆみ野四季の道」(http://yamazakijirou.cocolog-nifty.com/blog/で毎日UPされている。ちなみに山崎次郎という名前はペンネームである。かつてシナリオ教室に通い、そこで新人賞をとり、それを某テレビ局が放映したいと言う話があったという。山崎さんは趣味人でもある。

  お話を聞かせて頂いて私はとてもショックだった。ゴミ拾いは誰でもできそうなことだが、それを10年以上続けるのは凡人にはできない。同じように定年になったから、何もすることがないからボランティアでもやろうなんてことは土台無理なのではないかと思えてきたからである。それでも敢えて、「なぜ続けられたのか」と聞いてみた。「私はスポーツマンだから、いったん始めるとやめないんですよ。同じことを同じ条件の下で繰り返す。ゴミ拾いは私にとっての運動トレーニングのようなものです」。
 おゆみ野に来る前、35歳から40歳のころはホスタープランといって、日本人と外国の貧しい国の子どもたちとの手紙のやりとりを英訳したり、和訳したりするボランティアをやっていた。「少しでも人の役に立ちたい。ボランティアと聞くと心がうずく」と山崎さんは言う。

 しかし、会社の方はどうなっているんだろう。同じ団塊の世代の夫は、家でも夜遅くまで仕事をし、朝ジョギングなんてとんでもない話である。山崎さんの言葉を借りれば、「自分の仕事はきっちりこなしていたが、夜の酒席は一切断り、マラソンの練習に当てていた。周りからは変わり者と見られていたが、仕事はそれなりにしたので、年を取るにしたがって『彼はそうした人間だ』と認めてくれるようになった。その代わり出世とは無関係の人生だった」 ということらしい。
 それでも「組織の中で居心地が悪いということはなかったのか?」としつこく聞いてみた。すると「私は私のプランで生きていきたい。会社のプランや他の人のプランではなく。それは小さい頃からそうだった」と答えてくれた。「私は私のプランで生きていきたい」。誰もがそう願っているが、煩悩やら周りの状況やらに囚われる。あれもこれもと欲張って、自分が本当に生きたい人生が何かすらもわからなくなってしまう。いろんな質問をするたびに、最後に返ってくる答えは「私は私のプランで生きていきたいから」というものだった。このアイデンティティの強さこそが、山崎さんの生き方を可能したのだと思う。もちろん、それを支える能力は言うまでもないことだが・・・。
 

「ボランティアをしていいことは?」という問いには「友だち関係が平等になること。最近、友だちがやたら増えた。ゆるやかな連帯こそがボランティアを続けていける秘訣では」と教えてくれた。見方を変えれば、山崎さんの生き方は組織に対する強烈なアンチテーゼともいえる。組織というものはどうしてもその中で上下関係が生じてしまう。上下関係は突き詰めると利害関係である。そんなものは会社で十分。ボランティアの世界は肩肘はらず、自分の能力を生かして楽しみながら続けたい。ボランティア活動の本来の姿により魅力を感じるのは私だけだろうか。

 私は、山崎さんは「夜回り先生」に似ているなと思う。10年以上、毎日夜出かけて、街でふらふらしている子どもたちに声をかける。マスコミに注目されたのは最近のことだけれど、彼にはそんなことは関係ない。誰も夜回り先生と同じにはなれないけれども、心で子どもたちのこと思いやれる。同じように、おゆみ野でもゴミを拾う人が増えてきた。ゴミを捨てる人も減ってくるだろう。これも、山崎さんが一人ではじめられた活動がきっかけであったと思う。

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河村 義人さん

おゆみ野在住作家のデビュー作「子どもたちへのブンガク案内」

「私の本質は、文学である」と宣う河村義人さん
ついに本を出す

 あなたは、「これが自分だ!」というものを持っているだろうか?
恐らくそれさえあれば、どんな状況でも生きていける。まさに「生きる力」である。
特に定年後は最高だろうなと思うのである。
 村上龍は「13歳のハローワーク」の中で、13歳から「作家になりたい」という相談を受けたら、「作家は人に残された最後の職業で、本当になろうと思えばいつでもなれるので、とりあえず今はほかのことに目を向けたほうがいいですよ」とアドバイスすると書いている。
 河村さんはまさに、これを地でいっている。昭和37年生まれ。早稲田大学文学部で中国文学を専攻し、今は現役の銀行マンである。2005年の6月に「親なら読ませたい名作たちーー子どもたちへのブンガク案内」を出版し、念願の作家デビューを果たした。
 発刊当時、おゆみ野のつたやにある精文館書店やイオンの未来屋書店鎌取店にも平積みされ、おゆみ野の在住の作家の作品と紹介された。河村さんは有名な作家と並んで自分の名前の本が並んだを見て特別な感慨があったと話す。
 さて、その本だが、河村さんの喘息持ちの娘が「毛が生えていないからという理由で」カジカカエルを飼い始め、それをしげしげ眺めているうちに、カエルにちなんだ俳句などを娘に教えてやろうかと思ったところからスタートしている。芭蕉などに続いて著者が紹介しているのは島木健作の「赤蛙」である。私はこの「赤蛙」の話に自分を投影し勇気付けられたが、河村さん自身もそうではなかったのかと勝手に想像したのである。
 「赤蛙」の話とは、肺を病んだ島木健作が修善寺温泉で一匹の赤蛙を見かけ、その行動を描写した小説だ。詳しくはぜひ河村さんの本を買って読んでいただきたい。私の理解したところでは、「赤蛙が人間の目から見れば無意味で不可解な行動を繰り返し、いよいよ精魂尽き果てて、桂川の中洲の突端にしがみつくが、そのうち力も失せて渦巻の中に飲み込まれていく。それを見た主人公は、力に余る困難に挑むことそれ自体が赤蛙の目的意志だったのではと考え、自然界の神秘を深く感じたというものだ。・・・何か眼に見えぬ大きな意志を感じてそこに信頼を寄せている感じ・・・」。
 40歳を「不惑」というが、どうして40歳過ぎて50歳に近づいてもますます迷ってしまう。そんな時に、文学が自分の行く手を示してくれるということがある。この本にはそうした親の生きた証として子どもへ伝えたい話が詰め込まれていると思う。「版元からの一言」で「我が娘に読んでほしい本とその読み方の方法をちょっとマニアックに紹介」とあるが、こだわりとはそういうものだと思う。「自分の主観だけが頼り。自分がいいものはいいんだと信じることが本を読む秘訣だ」(河村さん)とも。
 河村さんは第2弾として「おいしいブンガク話(仮)」の出版を計画中である。
 さて、本を出そうかと考えている人のために、河村さんの出版までの経緯を紹介しよう。

 河村さんは5,6年前から自分が感動した本についてなぜ自分は感動したかをまとめてみようと思い始めた。そうして4年くらい前から東京への通勤時間を利用してノートにメモを書き続け、それを家に帰ってパソコンに打ちこむ作業をくり返したという。そして今回の企画を立ていろんな出版社にあたったが、当初は共同出版か自費出版しか道がないようだった。ところが、NPO法人「企画のたまご屋さん」に出会い、企画を応募。「企画のたまご屋さん」が全国の出版社250社約500人の編集者にメールを送り、その中の飯塚書店の編集者の目に止まり発行となったのである。「編集を担当した22歳くらいの若い女性にお尻を叩かれながら、執筆したんですよ。僕が作った俳句や短歌や反戦詩なども入れておいたのに返ってきた原稿をみるとバッサバッサと削られていたりしてね」と笑いながら振り返る。河村さんの将来の夢は、大学の先生になること(専門は日本文学か中国語)、もっと言えば子ども向けには漢詩文を素読させる「寺子屋」を、大人向けには現代中国語による漢詩教室を開くこと、だそうだ。

 河村義人さんの本を買いたい方はこちらまで

http://www.hanmoto.com/bd/ISBN4-7522-6007-7.html

 または、こちらまで。

http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82%E3%81%9F%E3%81%A1%E3%81%B8%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%82%AF%E6%A1%88%E5%86%85%E2%80%95%E8%A6%AA%E3%81%AA%E3%82%89%E8%AA%AD%E3%81%BE%E3%81%9B%E3%81%9F%E3%81%84%E5%90%8D%E4%BD%9C%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%B2%B3%E6%9D%91-%E7%BE%A9%E4%BA%BA/dp/4752260077

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岡村 奈保さん

泉谷中はどうやって再生したか?

元・泉谷中学校PTA会長

岡村奈保さん

 岡村奈保さんは現在、学校評議員の他に、民生委員・児童委員の泉谷中学校区の地区担当をしている。地区内で問題を抱えた子供たちのために、小中学校や児童相談所、児童福祉施設と連絡を取り合い、対応を図る仕事である。
 これほど岡村さんに打ってつけの仕事はないだろう。なぜなら、3年前逮捕者が出るほど荒れた泉谷中の保護者会の会長を引き受け、昨年度の「新生泉谷中」、今年度の「誇れる泉谷中」へと移行する橋渡しをしたのが彼女だからである。ちなみに昨年度はソニー教育財団の子ども科学教育プログラム最優秀プロジェクト校賞に輝くまでになった。しかし、そこまでにたどりつくには、学校も保護者会も並々ならぬ決意が必要だった。

盗難、破壊が横行する学校

 2年前、娘が泉谷中学に入学したばかりの頃、雨が降り出して傘を届けに学校にいった。ところが、傘立てがない。でもまあいいか。小学校の時と同じように持ってきたことがわかるように靴箱に引っ掛けて置いた。
 ところが、その傘が折られて返ってきたのである。その折れた傘の柄で胸をグサリと刺された気がした。傘立てが撤去されていたのも盗難のためであり、休み時間に全室に鍵がかけられるのも盗難や破壊活動を防ぐためであった。
たかが傘である。ジャージを盗まれたり、制服を盗まれたりした人に比べれば、ラッキーだったかもしれない。でも、涙がこぼれた。それは、「なぜこんな中学に娘を入学させてしまったか」という後悔である。できるならば、犯人を探し出し、その親ともども謝罪してほしいと強く願った。
 私はその怒りを、当時の白濵正人校長と岡村さんにぶつけ、泉谷中の保護者会が発行する広報紙「トライアングル」で紹介した。その時の彼らの真摯な態度――問題を隠匿するのではなく、むしろ明かせるだけ明かし、保護者と教師で協力して解決したいという強い決意を知り少し安心したのであった。
すさんだ内情を晒す広報紙の発行が可能になったのは、校長先生と岡村会長に勇気があったからであり、さらには両者の信頼関係がゆるぎないものであったからだと思う。これも岡村さんのコミュニケーション能力の高さゆえではないかと思う。
 余談だが、この広報紙は市内の中学校で話題を呼び、ある校長はすぐに白濵先生を訪ねてきたし、ある学校では職員会議で職員全員にコピーして配られた。それほどまでに、中学校の荒れた問題は泉谷中に限らない普遍的なものだったのである。

親を責めるだけでは解決しない

 ところで、私は自分が担当した広報紙の自慢をしたいわけではない。実は、広報紙の記事を書いた時点でも、犯人に対する怒りは収まっていなかった。ところが、岡村さんや先輩のお母さん方に会ううちに、考えがかわってきた。いわゆる「ワル」と呼ばれるような子供たちに対する眼差しが変わったのである。 
 岡村さんは、再三再四「彼らの置かれた環境を考えると、荒れ方がよくあの程度で収まっていると思う」と話す。「学校から帰っても親は夜遅くまで帰ってこないし、夜のご飯も作ってもらえない。朝起きても、親はいなかったり、寝ていたりして、朝ごはんもろくろく用意されていない。それなら学校に行かなくていいかという気にもなる」。
 「そういう子育て放棄の家庭環境に対して、親にちゃんとしろというだけでは、もはや解決できない。なぜ親はそうなったのか。そういう環境の中でその本人を地域がどのようにサポートできるかを考えなくてはならない」(岡村さん)。         
 ところが、まだまだ、「親を変えろ。悪いことをした人間は名前を公表し、社会的な制裁を加えられるべきだ」という考え方をする人が特に年配層に多い。「福祉の考え方では、その子の未来を考えると絶対に名前は伏せられなければならないはずなのに」と岡村さんは憂う。福祉に対する考え方のギャップが、この問題の解決を遅らせているようだ。
傘を折られて激怒した私も最初はそうだった。しかし、卒業文集などで、そういう子供たちの「俺のことを忘れないでくれ。声をかけてくれてありがとう」といった仲間に対するメッセージを読むにつけ、彼らの心情を思いやることもできるようになった。
 それに、自分の子供だけを守るなどということはどだい無理だということにも気がつかされた。学校全体、地域全体をよくすることでしか教育の問題は解決できないと思う。公立中学に子供を入れてよかったことは、子供に社会の縮図のような世界で生きることの難しさを経験させられることと、親の視野が広がる事ではないかと思う。

たかが制服、されど制服

 2005年の11月5日に泉谷中では徹底した制服指導を行い、制服の着方のグレーゾーンを排除した。スカートは膝をついて床につく長さ。シャツだら、腰パンは禁止。茶髪禁止。違反した生徒は家に帰して直るまで校門から入れない。数週間にわたって保護者も校門や玄関に立って協力した。
 これを決行するまでの学校側の根回しは大変だった。まずは先生方の徹底した心構えの統一を図り、保護者の理解と協力の呼びかけ、教育委員会などへの説明を行った」。予め校門から入れないと予測される子どもの保護者にも再三協力を依頼した。
 「ただ制服をきちんと着るという一つの単純なコンセプトを実現するために1年5ヶ月かかった。そのために多くの人が労力と時間をかけた」と岡村さんは振り返る。実際、Xデイ以降もトラブルはあった。学校もその対応に夜の9時10時まで縛られたこともあったという。岡村さんはそれを保護者の代表としてサポートした。そのおかげでXデイ以降あっけないほど学校は沈静化した。荒れていくのはあっという間だったが、それをもとに戻すのがどれほど大変なことかを思い知らされたのである。
 岡村さんは、大学で心理学を学んだ後、大学院で美術史に転向した。途中でご主人の仕事の関係でドイツに行き、そちらの大学でも学んだ。
 先日、アメリカの大学で韓国人学生が銃の乱射事件を起こしたが、ドイツでも数年前、同じような事件が起きた。その時も、「親は関係ない。ドイツではそういう子供を社会でどう受け入れていくかが議論の中心だった」と岡村さんが話していたのを思い出す。
 「私は公立の中学・高校に通っていた頃、世の中に対していつもイライラしていた。女はこうあるべきだという社会からの無言の圧力を感じていたからだと思う。ところが、28歳でドイツに渡ってほっとした。個人としての意見が通用する社会に来てやっと自分の居場所があったという気がした」(岡村さん)と振り返る。ドイツの経験も今の仕事に生かされているようだ。

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泉 周佑さん

リタイア後の団塊世代の新しい活動形態に期待

都川源流の自然再生をはかる会

代表; 泉 周佑さん

 インタビューして元気になれればこれほどいいことはない。5月9日に「都川源流の自然再生をはかる会」のお話を聞くついでに作業に参加した私は久々にこの気分を味わった。
 場所は小谷小の夏の道に平行してある管理用の車道の脇に広がる斜面である。ちょっと見ただけではそこに森があるとは誰も気がつかないだろう。しかし、中に入ればうぐいすが鳴き、サンショの木もあるような心安らぐ場所だった。
その日は既にメンバーのうち5人が作業をしていた。びっしりと斜面にはえた笹竹を刈る人、恐ろしいほど大量のゴミを分別しながら拾う人、切った丸太で即席の階段を作る人。それぞれが黙々と作業をしていた。
過去2回の活動ですでに刈られて歩けるようになった道を、泉さんに案内してもらい、池の近くまでいってみた。暑い日だったが、森はひんやりとして気持ちよかった。
 

ゴミを拾う山崎さんとの出会い

泉さんはおゆみ野に来て3年目。元・日航のパーサーだったという。長身で8等身というスタイルの良さ。さぞかし制服が似合っただろうと思う。この泉さんが遊歩道を歩いていて出会ったのが山崎さんである。
山崎さんはおゆみ野に住んでいる人ならば、一度は見かけたことがあるだろう。コミ袋を持って遊歩道を毎日歩いておられる方だ。しかも10年にわたってである。現役時代はスーツ姿でゴミを拾いながら駅に向かったという。「おゆみ野四季の道」というブログも開いておられるのでぜひみてほしい。
この二人が出会ったことがすべての始まりだった。二人とも60歳の定年を迎えたばかりの団塊の世代である。泉さんは、その後、千葉市のエコリーダー育成講座に出席し、そこで土気のあすみが丘に住む広島さんと若葉区に住む粟飯原(あいはら)さん、野田さんと出会う。結局、講座卒業の実習の場として、この都川の調整池が選ばれたというわけだ。そこに、近くに住む稲川さんが参加した。
「泉さんが活動されているのを見て本当は近所に住む私たちがやらなければいけないのに申し訳ないと思い参加した。それに山崎さんがゴミを拾っていらっしゃるのは前から知っていたから」(稲川さん)。「講座の間、泉さんから山崎さんのことを聞かされた。一体どんな人かと顔が見たくてやってきた」(野田さん)。「泉さんの人柄に魅かれてやっている」(粟飯原さん)。まさに場所を越えて人が人を呼んでいるのである。
しかもメンバーは「大草谷津田」のボランティアや「昭和の森での自然観察」のボランティアなどをかけもちでやっている。

いい男たちには女性が集まる?

極めつけはちょうど休憩時間に合わせてやってきたKさんだろう。冷えたお茶と食べやすく切ったメロンやミカンそれにお菓子。「山崎さんを尊敬しているから」といって差し入れを持ってきてくれた。山崎さんの元・同僚の奥さんである。
山崎さんのブログを見るとこの日のことを山崎さん自身もとても驚いていらっしゃったようだ。「女性がきてくれて華やいだ」と書いてあった。私たちもおばさんだけど、少しは役に立つかなと思ってしまった。
学歴も職歴も関係ない。私利私欲もない。上下関係もない。住んでいる場所も関係ない。ただ人柄と能力とボランティア精神だけでつながっている。自発的ということがこれほどまでに気持ちがいいものだと改めて感じた。
できるならば、この森の使い手も、自己責任の中でここを使ってもらいたいと思う。間違えても、危ないからといって管理が厳しくなったり、柵で張り巡らされたりしないでほしい。それがこの森の再生を願う泉さんたちメンバーに対するお礼だと思うのである。

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