市会議員

福谷 章子さん

主婦から千葉市議会議員になった福谷章子さん

街は誰がつくるのか?

「菜の花里美発見展」が地域に残した課題とは

 福谷章子さんに初めて会ったのは11年前、福谷さんが代表を務める「おゆみ野女性の会」の会合だった。福谷さんは、その前年に「ともに生き、育ち合う地域社会づくり」をテーマに泉谷小の保護者会の役員経験者を中心メンバーとした会を立ち上げていた。会合の議題は初めてのイベント「子育てわいわいトーク」の企画についてだった。アサパルというミニコミ誌の取材のために出かけた私は、主婦が自発的に問題提起し、テキパキ行動するのを見て驚いた。その後、福谷さんは、コミュニティ懇談会の事務局長として「こみこん祭り」を立ち上げたり、泉谷中の保護者会会長や青少年育成委員会会長などを歴任し、現在は「市民ネットワーク」から出馬して千葉市議会議員になられている。

 「おゆみ野女性の会」はその後も「おゆみ野子どもまちづくりクラブ」や「いきいき子育てミニフォーラム@おゆみ野」などの会に分化つつ、本体自体も「おゆみ野地区の高層マンション建設問題」についての研究会を開くなど、常にタイムリーなテーマで活動している。福谷さんと中心メンバーの方々が自分のお子さんたちが育った後も、「子どもの問題」、「子育て中の親の問題」、「地域の問題」に関心を持ち続け、行動しておられるのには感心する。

「菜の花」の残した負の遺産

 ところで、福谷さんと聞くと私にはどうしても2002年に行われた「菜の花里美発見展」(以下「菜の花」)を思い出してしまう。今回、福谷さんにお話を伺ったのは4月だったが、私はいまだにこの問題をどうまとめていいのか逡巡している。この間、「菜の花」に多少なりとも関係した人に会うたびに、5年前の出来事について感想を聞いているが、皆な一様に古傷のようなものを抱えていて、「何で今さらそんなことを蒸し返すのか」と聞き返されるくらいである。            

だからこそ伝えたいと思う。プロジェクトを持ち込んだ旧・都市公団やアートディレクターの北川フラム氏、彼の呼びかけに応じて参加した美術・建築系の大学関係者たち、そして賛成と反対に分かれた地域の組織の人たちに、「負の遺産はまだ残っているよ」と。私自身もおゆみ野に13年間暮らしておゆみ野を愛したいと思いつつ素直に愛せないでいるのはこの問題が心のどこかに引っかかっているからなのである。

 

「菜の花里美発見展」とは「まちづくり研究会」のメンバーだった旧都市公団と東急不動産が、「千葉のニュータウンのポテンシャルをあげ、活性化したい。アートを使ったイベントを仕掛けたい」ということで、アートディレクターの北川フラム氏に持ちかけたものだ。

 最終的に22大学38のゼミが参加し、47回の「コミュニティ出前講座」と16回の「街なか劇場」と銘打ったイベントが、おゆみ野、ちはら台、あすみが丘、季美の森で約1ヶ月にわたって行われた。

福谷さんは「菜の花」のおゆみ野住民の受け皿となった「チームおゆみ野」の代表だった。今こうして福谷さんから頂いた160ページに及ぶカラーの「菜の花里美発見展記録集」をめくってみるとアートってすごいなと思う。人々の思いとは別に、写真に撮られ記録に残り作品となる。秋の道で手作りの二人乗りカートのスピードを競う「おゆみのグランプリ2002」。夏の道で開かれた「蚊帳のウチ」。ペットボトルで作られた「光のコンビニ」。これは携帯かインターネットを利用するとどこからでも光るという仕掛けである。こんなことがあると知っていたら子どもにも体験させてあげたかったなと正直思う。

 「プロジェクトの開始をつげる芸大の田甫律子先生の白い風船が青空にすぅーと上っていった時、今までのもやもやしていた気持ちが吹っ切れて、よしやろうという気持ちに変わった」と福谷さんは言う。2002年7月7日、あきのみち公園でのことである。この「菜の花」こそ、福谷さんに一度は落選した千葉市議会議員選に再度挑戦させるものだった。「私は公人となって物事がいつ誰によってどのように決定されるのかを知るポジションにつこうと決意した」(福谷さん)という。

「菜の花」は最初から波乱含みだった。記録集によると、2001年秋にこの話が北川氏に持ち込まれた。2002年1月に北川氏から美術・建築系の大学に呼びかけられ、2月10日に大学ゼミに対する説明会、3月17日に現地見学会、4月2日に街中劇場、出前講座のチームが結成、4月下旬に住民説明会が開かれた。

 おゆみ野で最初にこの話が行ったのは、自治会連合会の44連協だった。しかし、「防犯上問題がある。公団の営業戦略の手伝いはできない」と一蹴されてしまった。その代わりに当時、泉谷中の保護者会会長で青少年育成委員会の副会長でもあった福谷さんに白羽の矢がたった。「子どもまちづくりクラブ」を立ち上げていた福谷さんは「こんな企画をぜひ子供たちに体験させてやりたいと思い請け負った」という。

決裂した住民説明会

 4月27日のおゆみ野の住民説明会は決裂した。「菜の花」に反対していた当時の小学校保護者会長のひとりによると、説明会で渡された地図では既におゆみ野は十数個に区割りされ、「あなたの席はこちらです」と地区別に座らされた。「まるで占領下の植民地のようだった」と振り返る。当時おゆみ野は空き巣や盗難が相次ぎ、不審者も出没していた時期だった。各学校の保護者会でもパトロールが強化されていた。説明会である学生から「おゆみ野道は汚くて問題がある」と指摘された時、「頭にきた」とその人は言う。「そんなことは言われなくてもわかっている。ちょっと街に来ただけで、失礼なことを平気で言うなんて、住んでいる住民をばかにするな」と吠えたとも。

 かたや「チームおゆみ野」のメンバーの1人は、「こちらが説明しようとしているのに、自治会関係者はいきなりマイクを引っつかんでとうとうと反対演説を行った。まるで、右翼かヤクザのようだった」とこちらも怒りを隠さない。 

 結局その場は、参加していた大学関係者の方から「確かに説明もなしに自分の住んでいる街に大勢の人が入り込んできたら自分も嫌だと思う。一度仕切り直しをした方がいいのでは」と提案してお開きになった。反対した人たちは「すぐまた説明会が開かれると思い待ち続けていたが、説明会は開かれることなくイベントが始まった」と不信感を持ち続ける。

 一方、福谷さんたちは、動揺する学生たちに「これがおゆみ野の現状です。それでもやりましょう」と説得した。「参加していた昭和女子大の杉浦久子先生たちも『こんなのおかしい』といってバックアップしてくれた。公団からも『何とか成功させてくださいよ』と泣きつかれた」(福谷さん)という。こちらはこちらで、自治会や保護者会という既存の組織に自分たちの活動をつぶされるという危機感を募らせた。 

 最後まで両者は歩み寄ることはなかった。しかし、立場こそ違え、そこに集まった人たちは、地域に愛着をもつ人たちであったのだ。「街は一体誰のものなのか?」「街をつくるのは誰なのか?」。それは「菜の花」以降、ずっと私たちに突きつけられた問題である。

「菜の花」がトラウマのように関係者の心に残ってしまった理由の1つは、「個人」と「組織」という言葉を双方とも体よく使ったことである。記録集(8ページ)にあるが、事務局の前田礼さんは「私たちは組織に対して呼びかけるのではなく、個人の有志に対して呼びかけようとしていた」。これは嘘だと思う。それなら最初から44連協に協力を呼びかけなければよかったのだ。一方で、「自治会」「保護者会」も「会としては反対です。でも個人の参加はご自由に」という姿勢をとった。これも詭弁だと思う。私は保護会の役員だったが、私にとってはイベントより周りの人間関係の方が大事だったのでいっさい「菜の花」にかかわらなかった。

ところが、主催する大学関係者の中に私の大学の同級生がいたのである。私は一度も彼女のプロジェクトを訪ねなかったが、心のどこかで「私は、もっと彼らのやろうとしていることを知るべきではなかったのか」という思いがつきまとった。あの時はまるで手を縛られたような不自由さを感じたのである。それが今に続くトラウマだと言ってもいいと思う。

企画の内容が議論されず筋論に終始する

「菜の花」は企画自体が議論の対象とならずに、筋論ばかりが議論されてしまった。本当にこの企画が街にとって有効と信じるならば、もっと直接的に住民に知らせて問うという方法もあったのではないだろうか。さらに必要なら開催時期を遅らせるという判断もあったのではないだろうか。「菜の花」は地域のポテンシャルを上げるために一番大切な、住民の共通認識をもたせるという部分をはしょってしまったように思えて仕方がない。

この原因は、主催者が街の都合とは関係なく、プロジェクトを限られた期間で、「行うべきもの」として進行させてしまったからではないかと思う。半年にも満たない期間で、街を知り、住民のコンセンサスを得て、住民とともにイベントを行うとすれば、打ち上げ花火にしかならない可能性は大きい。それなのに「ニュータウンからアーバンビレッジへ」といった難しいコンセプトを打ち出したりするから話が難しくなったのではないかと思う。公共事業によくある、単年度で消化しなければならない予算のあり方にも問題があったのかもしれない。

一方で、外部からの資本や提案を受け入れる街の住民も、住みはじめて数年たらずで自分の周りのささやかな関係を保つことに精一杯で、街全体と自分のかかわりを把握できない時期にあったと思う。「自治会」や「保護者会」といった既存の組織も反対を表明したものの阻止することもできず無力を露呈してしまった。予算3000万円ともそれ以上とも言われているこのイベントが街の一部の人たちしか享受できなかったのは残念なことだといわざるを得ない。

しかし、「菜の花」の記憶を風化させてはならないと思う。今後外部からの資本が投下される時、それに対応する住民全体のコンセンサスをどういう形でまとめ、行動していくのかを考える”意味のある経験“に変えていかなければならないと思う。

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